2008年01月22日

子どもと物語

最近、メイの就寝時間が、遅くなりがちだ。
布団に入っても、ダラダラと起きている。
急激に寒さが厳しくなったので、外遊びも幼稚園だけ。
その幼稚園の外遊びも、最後の行事に向けて、しばしば削られるので、体力が余っているのだろう。

今日の昼間までは、ボランティアの作業で、頭の中のゆとりがなかったので、長めにお風呂に入ったりしていたが、今日はメイもジンも『まだまだ遊びたい』とはっきり言っていたので、寝ながら遊ばせることにした。

だが、本当に遊ばせるわけではない。

私:『よし、今日は夢の中で遊びの続きをしよう』
メイ:『夢の中なら、何でも出来るね』
私:『じゃあ、今日は夢の世界のくじら灯台で待ち合わせね』
メイ:『一番最初についた人が、テントを建てるって言うのはどう?』
私:『くじら灯台の近くに港があるから、おいしい食べ物屋さんがあるよ。そうだな〜〜、しおふき亭なんてどう?』
ジン:『何、食べるの?』
私:『お刺身とかおいしいよ、きっと』
メイ:『じゃあ、みんなが揃ったら、しおふき亭に食べに行って、その後テントを立てて、キャンプしよう』
ジン:『いいね、いいね』
私:『じゃあ、夢の世界のくじら灯台の前で、また会おうね』
メイ&ジン『うん、また後でね』

こんな感じ。
ジンなど、遊びたいけど疲れているので、『よ〜し、行くぞ』と目をつぶると、あっという間に夢の世界へ。
メイは、なかなか寝付かれないみたいだが、ジンの寝息が聞こえるので、『待ち合わせ』に遅れてはならないと、目をつぶっておとなしくしている。
すると、そのうちに寝てしまうという具合だ。

私がよく見に行っている森の声さんのブログには、こうある。
(以下引用)

==========
例えば、子どもが今Aという道を歩いているとします。
でも、大人はBという道を歩かせたいと考えています。
そんな時、多くの大人が無理矢理道を変えさせようとします。
“なんでこんな道を歩くの”となじります。

でも、人は子どもも大人も、今まで歩いてきた道を先に進む以外に動きようがないのです。
過去の延長でしか動けないのです。
それなのに、“なんでこんな道を歩いているのだ”となじってしまうと、その場でうずくまってしまい、“この道”すら歩くことが出来なくなってしまいます。
自己肯定観も低くなります。

そうではないのです。
道を変えさせてはいけないのです。
そうではなく、Aという道の先をそれとなくBという道につなげてあげればいいのです。
子どもはずーっとAという道を歩いているつもりなのですが、途中で知らないうちにBという道を歩いているように仕掛けを作るのです。

これは、大人が子どもの“ものがたり”に意識的に関わるということです。

==========(引用終わり)

子どものファンタジーの世界に、意識的に関わるには、自分のゆとりも必要だが、子どもにとって自分の内側にあるファンタジーの世界は大切なものだし、うまく関わっていけるようになりたいと思う。
明日も、こんな風に、うまく出来れば、私の1日ものんびり終われそうだ。

森の声さんの『子どもの成長とものがたり』は、下記アドレスから。
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/200711180000/
最終的には違う話に繋がっていきますが、12回連続の話です。
posted by 荷葉 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月04日

模倣

子どもは模倣によって、物事を体得していく。
良い手本ばかりが回りにあれば、問題ないが、現実はそうではない。

ジンは今、身体能力の発達に伴い、模倣での体得したことを、うまくできるようになってきている。
上手く、と入っても、そこは1歳児なのでもちろん振りだけなのだが、何の真似をしているのか、見ているとよくわかるようになってきた。

洗濯を畳んでいる真似、メイがお化粧ごっこをしている真似(私はあまり化粧をしないので、私の真似ではないと思う)、夫が仕事に行く時の真似などなど。
メイを幼稚園のバス停まで送りに行く時も、バスから降りてきた先生が『おはようございます』と頭を下げると、ジンも一緒にうにゃうにゃ話しながら頭を下げる。
迎えに行く時も、『さようなら』といいながら、一緒に頭を下げる。

メイがやって欲しくないことをしても、ちゃんと真似をする。
メイがやってはいけないと思って、やらなくなったことも、きちんと覚えていて真似している。
いつかやってやろうとでも思っていたのだろうか?

良いことや、いずれ身につけていくだろうことを真似してくれるのは嬉しい。
でも、やって欲しくないこと、やってはいけないことを真似されるのは困る。

一番困っているのは、『投げる』こと。
メイはなんでもかんでも『投げる』ことをしない子どもだった。
彼女は第1子なので、友達と接する時間より、大人(特に親)と接する時間が長かったからだと思う。
物を投げるという行為は、大人の生活に極めて少ない。

だが、今のメイはボール投げをしたり、お手玉をしたりする。
ジンはそれを見ていて、『投げる』という行為を覚えた。
でも彼は、投げてもいいものと、投げると危ないものの区別がつかない。

公園で、メイの幼稚園仲間や小学生と遊んでいる時は、皆が気をつけてくれるし、避けたりしてくれるので、まだいい。
問題は、小さな子ども達の集まりに行った時だ。
ジンの『投げる』スイッチが入っているときなど、それこそ私はジンに張り付いて歩いて、頭を下げっぱなしになってしまう。

子どもに真似されても良い行為だけ、目の前で出来るのが理想だ。
でも、兄弟の上の子どもに、それを要求するのは無理というもの。
親がいちいち対処していくしかない。

私が、マニュアル的シュタイナー教育に疑問を感じたのも、こんなことが原因だったりする。
子どもが1人なら出来ることも、2人以上いると結構厳しいことだって、結構ある。
みんな、どうしているのかな?
マニュアル的シュタイナー教育に狂信的になっている人たちを見ると、そう考えてしまう。
posted by 荷葉 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月27日

風の違いを感じる

10日ほど前、水遊びを終えたメイとジンを急かし、買物に出かけた。
彼らが水遊びをしてる時から、今にも雨の降り出しそうな暗雲が立ち込め、今すぐ雨粒が落ちてきてもおかしくない気配。
醤油を切らしかけていた私は、『ゴメン、雨降りそうだから、急いで』といいながら、メイとジンを急かした。
たかが醤油・・・なのだが、夕食の準備には足りても、和食党の夫が『冷奴食べたくなったから、豆腐買ってきた』などと言われたら、足りないかもしれないくらいしか残っていなかったのだ。

近くのスーパーに買いに行く途中、交差点を曲がり、後100mくらいという時、すぅっと向かい風が吹いた。
空気が変わったような感じのする冷たい風だった。
私は『雨が近いな』と先を急ごうとしたのだが、メイが私のTシャツの裾を引っ張った。
『お母さん、今の風、冷たかった。あれ、何?』
その直前まで、メイは楽しそうにスキップしながら一緒に来ていたので、気づかないと思っていたから、驚いた。

『向こうにある雨雲の下の風がこっちまで吹いてきたんだよ、きっと。もうすぐ雨が降るから急ごうね』
私はそう言って、メイを急かした。

無事に買い物を終え、自宅に戻り、15分くらいした後、激しい夕立が降ってきた。
そのとき、水遊びとそれに引き続いての買い物疲れで、メイとジンは昼寝をしていたが、私はちょっと嬉しくなった。

ほんの一瞬だけ吹いた冷たい風に、メイが自ら気づいたということが嬉しかった。

普段、子どもたちがいろいろな遊びをしていて、身体的な発達を感じることは多々あるのだが、自然のささやかなことに反応する感性の発達を感じる機会は少ない。
今までは感じていたのかもしれないが、言葉に表現していなかったのかもしれない。
だから、自ら感じ、言葉として表現してくれたことが、とても嬉しかった。
posted by 荷葉 at 01:17| Comment(2) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

メイとキャラクター物

もうすぐ6月。
来年度、幼稚園を考えている方たちは、そろそろ幼稚園見学を考え始める時期だ。
幼稚園によっては、通園バックや上履入れなどを作らなければならない園もあり、入園を考える方には、頭の痛い問題だろう。

メイの幼稚園では指定のリュックの他に、通園バック・上履入れ・着替え袋・お弁当袋・ランチマット・タオルに引っ掛ける紐をつけたものを用意しなければならない。
それも、大きさの指定がある。

大きさの指定があるので、市販品ではサイズを探すのが大変と思っていた私は、『面倒だな〜〜』と思いつつ、作った。
後から考えれば、先生が大きさを測るわけではないので、大きさの多少のズレは許容範囲なのだが、それに気づいた時には、既に布地を購入した後だった。

作るもの以外にも、上履・お弁当箱・箸とスプーンとフォークのトリオセット・コップなどいろいろと入園に当たっては準備したのだが、メイが持っているものには、キャラクターがついている物がほとんどない。
キャラクターがついている物といえば、義母に買ってもらった長靴くらいなものだ。

それに、幼稚園に入園して、他の友達の持っているものを見るまで、メイはキャラクターの靴とか、上履とか、布地とか、衣類が普通に買えることを知らなかった。
キャラクターのついている物は、探さないと買えないと思っていたふしがあるし、入園前、彼女の知っているキャラクターはキティちゃんとミッキーマウスとプーさん、アンパンマン、あとは『おかあさんといっしょ』に出てくるキャラくらいなもので、キャラクターそのものを大して知らなかった。
おもちゃにもキャラクター物は少ないので、あまり執着がなかったのかもしれない。

だから、時々『メイちゃんはキャラ物を欲しがらないの?』とか『どうやったら、キャラ物を買わずに、キャラなしの物を買えるの?』と聞かれることがある。
身近にある子供用品売り場にはキャラ物しかないところもあるので、不思議がられても仕方がない。

でも、答えは簡単なのだ。
メイに、キャラ物を見せないから。

メイを連れて買い物に行くと、余計なものまで買ってしまって、出費がかなり増えることもある。
そのうえ、私は人ごみが余り好きではない。
だから、日用品とか、どうしても実物を見たいもの以外はネットで買うことが多い。
必然的に、メイは食品・日用品売り場くらいしか行った事がないということになる=キャラ物を目にする機会がほとんどない、ということでもある。

メイのものを買う時も、その延長で、ネットで買う。
幼稚園の準備の時もそうだった。
買わなければいけないものをピックアップしておいて、『幼稚園に持っていくもの、どんな絵がいい?』などとさり気なく希望を聞いておいて、いくつか商品を絞っておく。
商品を絞り終えたら、初めてメイに『○○を買わなきゃいけないんだけどね、どれがいい?』と言って、選んでおいた商品をパソコン上に表示させて見せる。
あとは、買い物に行っているのと同じ感じだ。
メイとあれはどうだとか、これはどうだとか話しながら、最終的にメイがひとつに絞る。
ちなみに、メイには普段からパソコンを触らせていないので、操作は私がする。
私が商品をあらかじめ選択して置くから、キャラ物はメイの目に入らない。

このやり方がいいのかどうかはわからない。
ただ、気をつけているのは、パソコン上で選んだものも、お店と同じようにお金を払って買っていると知らせることだ。
だから、あまりカード決済はしない。
注文したあとに、メイと一緒に振り込みに行き、『さっきメイが選んだもののお金を払うんだよ』と言って振込みをする。

確かに、『何で○○(近くのお店)で買わないの?』と聞かれたこともあるが、『この間買い物のついでに見てきたら、メイの欲しい柄(絵)が売っていなかったの。だから、パソコンで遠くのお店に、メイの欲しい柄(絵)があるか探すんだよ。3年間使うものだから、好きな柄(絵)にしたいでしょ』と答えたら、納得していた。

今は世の中に物が溢れていて、大人ですら、物を選ぶのに迷い、これでいいのかと躊躇する。
子どもは尚更だと思う。
好きなキャラクターがある場合でも、例えばお弁当箱に同じキャラのポーズが違うもので数種類あったりする。
こんな風に、物が溢れている売り場に連れて行って、『さあ、好きなものを選んで』と言われても、子どもは目移りして、決められない。

選択の自由を与えるのも大切だ。
でも、判断力の乏しい幼稚園入園前の子どもに、溢れんばかりの商品の中からひとつ選べというのも酷ではないかと、私は考えている。
子どもが選び易いように親が手助けしてあげることも、大切だと思う。
posted by 荷葉 at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

シュタイナー教育と文字

メイは最近、メキメキと文字を覚え始めている。
もちろん、私が教えているのではない。
幼稚園でおままごとをしていると、『手紙を書く』ことが、ままごとの中に入ってくる機会が多くなってきているらしいのだ。

メイが良く遊んでいる子は、上に兄弟姉妹がいる子がほとんどで、上の子を見ているせいか、彼らはかなりしっかり字が書ける。
その『お手紙』を見ているうちに、先生に聞いたり、友達のものを真似したりして、自分も書けるようになってきたようなのだ。

シュタイナー教育では7歳までの間に、文字を教えることは良くないとされている。
でも、幼い頃から絵本などに親しんでいれば、今の世の中、というわけでなくても、自然に興味を持ち出しても仕方のないことだと思う。
親が押し付けるわけでもなく、自分の興味で『知りたい』と思い、それを身に付け始めているのだから、メイの文字への傾倒を止めるべきものでもない。

そこで、私が彼女に対して取っている態度は
1、聞かれたら教える
2、見かけたときに、書き順が違っていたら教える
この2点だけだ。

誉めもしないし、『もっと書いてみたら』とも言わない。
ましてや、『じゃあ次は、これを・・・』などと言うこともしない。

もし、あまり興味がないけれども、友達が書いているから、という理由で書くことをし始めたのであれば、きっと飽きっぽいメイのことだから、今頃はもう書いていないだろう。
それが、もう半年くらい続いているので、彼女の興味は本物なのだろうと思っている。
もうしばらくすれば、ほとんど書けるようになるに違いない。

7歳まで文字を教えてはいけないといっても、本人が本当に興味を持っているものを無理やり辞めさせるのは良くない。
また、興味を持ち始めたからといって、教え込むのも、違うと思う。

興味を持つのが早かろうが遅かろうが、自分で学び取っていくことを自然に出来るようになれば、それがこれから先、様々なことを学ぶ時に良いと、私は思う。
posted by 荷葉 at 00:30| Comment(5) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月17日

絵本『金色のお城から』を読んで考えたこと

先日、『金色のお城から』を入手したと書いた。
子どもたちに読んであげて、しばらく経ってから、ふと思ったことがある。

シュタイナー教育って、本当は子どもに対して行なうための「手法論」ではなく、育児・教育に関わる大人に対しての「心得」とか「教育論」なんじゃないかということだ。

どうして、こんなことを思ったのかというと、『金色のお城から』の中には、金色のお城に住む子どもが青い星(地球)に興味を持って行きたくなり、次第に遊ぶこともせず、青い星ばかり眺めているようになったので、天使が王様に聞いてみて、「あなたの望む星に行くことになりました」というくだりに関係がある。

感想を掲載している『シュタイナー教育の基本要素』の第2章は『親と子』という章で、「子どもの心魂はずっと以前から存在しており、一種の無意識とも言える愛情が、子どもを両親の元に導く。両親は子どもから注がれた愛情のお返しに、子どもに愛情を抱く」という内容がある。
私は、『基本要素』を読んでいるので、そのことを知っていた。
だから、『金色のお城から』の先述のくだりも、<このことを指しているのだな>と、すぐにわかった。
でも、そのことをメイやジンにもちろん言わなかった。
子どもに難しすぎるというわけではなく、私自身が親として、『そういう考えもある』と理解しておけばいいと思ったからだ。

そして、一昨日、お気に入りリンクにもあるブログ『森へ行こう』のメインHP『生命を考える』のトップページを久々に読み、絵本を読んだ時のことを思い出し、『シュタイナー教育とは(大人に対する)育児教育の観念・考え方なのであって、手法ではないのではないか』と思ったわけだ。

今、○○教育というと、一般的には「子どもにやらせる」とか、「子どもと一緒に親がやる」とか、その教育方法のやり方で行動するのは子どもだ。
だから、子どもにわかりやすい教材があったり、プログラムがあったりする。

ところがシュタイナー教育には、子ども自身が接するようなわかりやすい教材・プログラムは、目に見える形では存在しない。
もちろん、私が知っている範囲に限られるので、未就学児の場合ということになるのだが・・・

「人形は表情のないものがいい」とか「積木のような幾何学的な形は良くない」とか、シュタイナー自身の著作にはおもちゃについてのことが書いてあって、それに沿ったおもちゃがあることは事実だ。
でも、そういったおもちゃを子どもに与えたところで、それだけでは別に何らかの効果があるわけでもないように思う。

シュタイナー教育関連書の中に書かれていることは、育児・教育に関わる大人がどんな考えを持ち、どういう風に行動すればいいのか、といった大人に向けたものばかりだ。
それを、こんなおもちゃがいいとか、こういうことをしてはいけないとか具体的な「手法」としてわかりやすくし、取り入れやすくしたものが、今、シュタイナー教育として語られているものに多いのではないかと思う。

もちろん、理解するのが難解なシュタイナーの著作を読んだほうがいいと言っているわけではない。
『手法』もひとつのやり方なのだが、それを取り入れて、なおかつ自分はどうなのか考えることだと思う。

例えば、7歳までは模倣の時期だから、叱っても意味がないけれど、でも叱らなければいけないとき、『自分は模倣のお手本になっているか、叱らないで済む環境を整えていたか、真似されては困ることを自分自身がやっていないか』と考えることが出来るかどうかといったことや、想像力が働くように表情のない人形を与えているのに、イライラして『ただのお人形でしょ』と切り捨てるようなことを言っていないかとか、子供だけでなく、自分も自己教育できているかということが、シュタイナー教育にとって大切なことだ。

なぜなら、シュタイナーは『どんな教育も、基本的には人間の自己教育である』と言っている。
そう、子どものためにシュタイナー教育を取り入れるのではなく、子どもをよりよく育てたいと願っている自分のためにシュタイナー教育を学び、自分自身が取り入れることが矛盾なく受け入れられるシュタイナー教育なのではないかと思う。

もちろん、わかっていても取り入れられないという線引きは、各自の自由だし、悪影響を及ぼすかもしれないということを全く知らないで選択しているよりは、ずっといいはずだ。

*********************
(『生命を考える』より引用)

シュタイナー教育を取り入れたいのなら
生活をもっと楽しく、豊かにするために
大人が自分の生き方を見直すために取り入れて下さい。
楽しい生活を犠牲にして
シュタイナー教育に縛られてはいけません。

生活の中にどんなにシュタイナー教育を取り入れても
実際に子どもを育てているのはあなたであって
シュタイナー教育ではないのです。
ですから、あなたが育たなければ子どもも育たないのです。

よく考えてみて下さい。
この世界には素晴らしい人がいっぱいいます。
でも、その中でシュタイナー教育で育てられた人はどれくらいいますか。

R.シュタイナーもシュタイナー教育で育てられたのではないのですよ。
posted by 荷葉 at 03:39| Comment(2) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

シュタイナー教育の基本要素〜第1章〜

何とか、『シュタイナー教育の基本要素・第1章』が読み終った。
第1章は、「精神科学の立場からの子どもの教育」。

まず人間の基本構成要素として、人間を見て把握できる物質体として肉体、力や力の流れ・作用の総体の精神的組織としてエーテル体、人間の内面に生ずる知覚・感情・本能・思考・意思衝動としてのアストラル体、自分に向かって『私』といえる能力を指す物としての自我の4つが挙げられている。
そして、その4構成要素は幼年期から成人期にそれぞれが発展し形成されていく。
順序として、肉体・エーテル体・アストラル体の順に自由になっていく。

7歳までの子どもに関しては、肉体的にのみ影響を与えるようにする。
それは外的なことのみでなく、重要な身体器官の発達時期なので、感覚に働きかけることが重要。
この際に、『模倣』が決定的な役割を果たす。
この時期の子どもは自分が見るものを真似してもよいと思うので、大人は真似されても良い事だけをするようにする。
子どもが知覚するものが肉体的器官に作用するので、喜びや楽しみが周囲にあるようにする。
(子どもが)発育中の器官なのだから、積み木セットや人形のように完成されたおもちゃは空想によって何かを付け加えられないので好ましくない。
この時期は喜びと楽しみの上に教育がなされなければならない。

乳歯が抜ける頃になるとエーテル体が自由になるが、理性や悟性に価値を置いてはいけない。
この時期に畏敬の念を目覚めさせ育てることは後年まで重要な作用を及ぼすので、大切。
また、この時期には記憶が育成されるので、機械的な九九の暗記や詩の暗唱をしたりする。
記憶・習慣・性格の基礎を育成するために、子どもが権威を見上げるようにしなければならない。
これは畏敬ともつながることであって、子どもの周囲にいる人間が子どもを信じ、子どもの理想にならなければならないことでもある。
エーテル体を育成するためには、健康と人生の喜びの感情を形成する必要がある。
生命を予感できる物がエーテル体にとって重要なので、生命のないものから生命のあるものを作ることを学ぶ必要がある。
無機的なおもちゃや幾何学的な形態を組み立てるおもちゃは好ましくない。
(例として、積み木セットや編み細工)

思春期になると、アストラル体が自由になり、異性への関心とともに個人的な判断力が現れる。
この時期になって、初めて、肯定否定の判断や比較に呼びかけることができる。
この年代より大きくなると判断力の形成が困難になる。

第1・7年期には模範・模倣、第2・7年期には権威と手本を熱心に習うこと、第3・7年期には原理原則が必要である。
子どもの周囲で物事がどのように行なわれるかが重要で、口に出さなければ、何を感じ、何を考えても良いということはない。
胎児にとって母体が大切にされなければならないように、子どもにとって環境は入念に準備されなければならない。
大人は純粋な思考と感情を持って子どもの周りに居なければならない。

********************

第1、第2・7年期は結構具体的な記述もあって、わかりやすかった。
現実に則して理解できることも多かったと思う。
例えば、『模倣』
メイもジンも、とにかくよく親の真似をする。
こちらが無意識にやっているようなことも真似したりして、気づくこともあるくらいなのだから、幼児期には親が意識的に真似されても良い事をするというのは確かなのだろう。
もちろん、シュタイナーの言っていることには異論もあって、積み木だと空想が付加されないというのは当たらないのではないかと思う。
積み木によって空想が広がることも多い。
第2・7年期の記憶が形成されるというのは、自分に当てはめてみるとわかる。
小学校の頃に暗記した物は、今でも案外覚えていたりするものだ。
私など高校の校歌は忘れているが、小学校の校歌は歌える。
そして、第3・7年期の判断力のことだが、以前に交流分析(TA)という心理療法を行なう精神科医で子供医療センターに勤務していたこともある先生の講義にも同じようなことが出てきた。
『子どもが自分で的確な判断を下せるのは、およそ小学校の高学年くらいです』
シュタイナーの言う『アストラル体の形成前に判断を求めることはよくない』というのもあながち嘘ではないようだ。
ちなみに、その精神科医の先生は『子どもの安全に対して、万全を帰すなら、小学校の間は学校の送り迎えをした方がいい』とおっしゃっていた。
それくらい、子供の判断力というものには波があり、確実なものでないと医学的にも考えられると言うことなのだろうと思う。

読み進めて感じたことは、とにかく「してはいけない」「しなければならない」が多いことだ。
上記の概略も、本でいちいち確認したが、マニュアル本のような「してはいけない」「しなければならない」には閉口した。
でも、理論的にはわかってきたような気がする。
自分なりの理解をしていけば、今のところ、難しいことを言っているわけではない。
ただ、現実の生活に即してみれば、『大人は純粋な思考と感情を持って子どもの周りに居なければならなくて、口に出さなければ、何を感じ、何を考えても良いということはない』というのは、かなり難しい・・・・

オンライン書店ビーケーワン:シュタイナー教育の基本要素
posted by 荷葉 at 01:46| Comment(4) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月21日

シュタイナー教育への葛藤

ここしばらくへこんでいる間に、いろいろとネットサーフィンしていたせいで、またまた忘れていた葛藤を呼び覚まされてしまった。

『シュタイナー教育』と銘打ったおもちゃが世の中に氾濫しているのだが、それって本当に『シュタイナー教育』で使うものなのかな、といったような疑問と葛藤である。
なぜ葛藤するのかというと、すごく現実的なのだが、それらの値段の高さ。
もちろん親としていいおもちゃは買ってあげたいと思うが、如何にせん高すぎるというのが本音。
疑問としては、シュタイナー自身が100年程前の人なので、あたりまえのことなのかもしれないのだが、『シュタイナー教育』のおもちゃとして、木の冷蔵庫のおもちゃとか木のアイロンのおもちゃとかは違うんじゃないかな、という気がしてならないというようなこと。
そもそもシュタイナー自身は積み木も絵本も幼児に与えるものとしては良いものだとしていない。
いいトコ取りで行けばよいと思ってきても、時々、この疑問と葛藤にぶつかるということは、どうしても自分の中で解決しておかなければならない問題なのだと思う。

シュタイナーの言う第一7年期(0〜7歳)に関しては、『模倣を通じて成長する』『身体を使って物事を覚える』『知的なことに偏ってはいけない』と言ったようなことは書いてあっても、「おもちゃはこういうものがいいという具体的なことは、シュタイナー自身の著述を研究している方のHPにはない。
第二7年期(7〜14歳)に関しての事が多いように思う。
シュタイナー自身の著述の日本語訳にも第二7年期に関する本があるが、第一7年期に関してだけの本はない。
あと2〜3年でメイが小学校に入ってから訪れるであろう一般的な教育観との本格的なギャップに対して、それを受け入れた上で自分がシュタイナー的にどうしていけばいいのかを知りたいと思う。

シュタイナーの思想は多岐にわたっていて、それを理解することは、まず不可能だ。
でも、シュタイナー教育を現代日本で実践していくには、一番大切なのは手法ではなく精神なのではないかという気がする。
精神を少しでも実践できれば、『自由への教育』が少しなりとも実践できると思うのだ。

こんなことを考えた原因は、いくつかのHPでシュタイナー研究の高名な先生方の話を聞いたというものの中にいくつか私のシュタイナー教育に関する固定観念を覆すものがあったからだ。
ひとつはシュタイナーの邦訳で高名な西川隆範先生がテレビに関して、『どうしても見せるなら、明るい部屋で、親が一緒に話しながら見たほうがいい』と言っていたということ。(この話は以前から聞いた事があった)
もうひとつは、シュタイナー研究で高名な高橋巌先生が『テレビを見せることに関しては、シュタイナーならどういうか、分からない』と言っていたということ。
シュタイナー自身は『新しいものを排除しない』というようなことを言っていたそうなので、テレビやパソコンに関しては、今やあって当たり前になってしまっているから、シュタイナーがどう位置付けるかは、実際にわからないというのが当然だと思う。
テレビが良い影響を与えるものでないことは、知っている人が多いし、私も良いものではないと考えている。
だが、シュタイナー教育でテレビは踏絵のように扱われているので、意外だった。
そして、母親たちがシュタイナーを知るきっかけとなることの多い子安美智子先生に関して、『シュタイナー教育として大きく欠けているものがある』といっている研究者がいること。
これは、『精神』としてのことで、そのHPに書かれていたことを具体的に書くと、オカルトっぽくなるので、ここには書かない・・・(^^;)

『精神』のこととなると、オカルトっぽくて難しく、今まで敬遠してきた。
『手法』が取り入れられなくて、でも捨てきれなくて葛藤する以上、これ以上避けては通れない。
シュタイナー自身の著述の邦訳を読んでみようと思う。


「神秘学遊技団」で、シュタイナーの精神世界の一端に触れることができます。
posted by 荷葉 at 08:55| Comment(2) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月24日

シュタイナー教育の手作りおもちゃ

『シュタイナー教育の手作りおもちゃ』という本を貸してもらった。
(クリスティーン・ファインズ・クリントン、メアリー・ローリング、ステファニー・クーバー共著/寺田隆生・訳/学陽書房)
オンライン書店ビーケーワン:子どもと楽しむシュタイナー教育の手作りおもちゃ

シュタイナーのおもちゃというと、『木のおもちゃ』『天然布のおもちゃ』が概念としてあって、『長持ちする』『壊れない』というイメージがある。

作るとしても、手間がかかったり、道具が必要だったりしそうな感じがして、『シュタイナー教育の』手作りおもちゃは、少し敬遠気味だった。
自分で、適当に作る手作りおもちゃなら、何個か作ったことはあるのだが・・・

ところが、本に紹介されていた手作りおもちゃには、いくつか紙で作るおもちゃがあった。
以外、というか、当たり前と言うか・・・
私自身の思い込みに、少し反省させられた。

天使のモビール、紙箱、星の飾り・・・
紙で作るなら、手軽だし、簡単そうに思える。
それでいて、シュタイナーっぽい。
天使のモビール、なんて発想は、日本の手作りおもちゃにはない。

ところが、紙製のおもちゃは『簡単そうだな』とか『メイと作れそうだな』と思いはしたものの、あまり触手が動かない。
私自身が『やってみよう』と思ったのは『アドベント・トライポット』とか『隠れ家』とか『虹色のボール』とか『織物の鉛筆入れ』
手間もかかりそうだし、道具の必要もありそうなものばかり。

どうやら私は面倒な思いをしても、作るのなら、ちゃんとしたものを作りたいらしい。
そんな性格と言うべきなのだろうか。
しかも、まだ、クリスマスプレゼントも作り終えていないのに(これをUPしたら、頑張ります)、ジンの誕生日プレゼントを考えてしまった。

何か自分にできるかもしれないということを知った時、気軽に『やってみよう』と思い、行動に移してしまうところが、自分の感性に合うシュタイナー教育と縁切りできないわけなのかもしれない

そんなことを考えさせられた本だった。
posted by 荷葉 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

家庭のシュタイナー教育〜シュタイナー教育と私の距離〜

実のところ、私は教科書的なシュタイナー教育とは一線を画している。
そうなるには、私なりのわけがあった。

シュタイナー教育を実践している人には、『木のおもちゃ以外はダメ』とか『天然素材の物以外はダメ』とか、シュタイナー教育で良いとされている事以外を『ダメなもの』だと決め付ける人がいる。
鼻にかけている言うか、見下すと言うか、そんな感じの方に多く出会ってしまった。

私だって、良いものは良いとわかっているけれど、先立つ物がないから買えない。
日々節約で、何とかなっているような家計なのだ。
とてもシュタイナーを良く学んでいる方が、
『買うより手作りがいいのよ』
とおっしゃってくれたので、いろんな物を手作りしたが、やっぱり話題に上るものを買えないという事には変わらない。
そんなわけで、彼女たちと会うときには、肩身が狭かった。

そこに、シュタイナー幼稚園に入園した子供の、ショッキングな話を聞いた。
子どもが3歳くらいになって、親がシュタイナー教育と出会い、幼稚園をシュタイナー幼稚園に選んだという方なのだが、今までシュタイナー教育らしい生活を全く送っていなかったせいもあって、子供がなかなかシュタイナー園の独特のやり方に慣れなかったそうなのだ。
すると、他の子どもたちがお弁当を持って行くようになったとき、園から『当面、午前中で帰ってもらいたい』と言う申し出を受けたというのだ。

子どもを尊重するシュタイナー園であるから、その子のことを考えての申し出であったのかもしれないが、幼稚園に行く年齢くらいになれば、自分が他の子どもと違う扱いを受けているということは、わかる。
ましてや、皆がお昼にすると浮き立っている時間に、自分は帰らなければならないのであれば、親が隠したところで、気づくだろう。
もし、普通の幼稚園であれば、その子にはその子なりの対応で、他の子と同じ時間だけ幼稚園に居られるように計らってくれるだろう。

この話に、私はショックを受けた。
個を大切にするのはもちろんありがたいが、集団に入った子どもは、他者と自分を比較できるようになる。
個だけを見ているのではなく、集団の中で、子どもがうまく成長していく方法を見つけてもらうことは出来なかったのだろうかと思った。
そして、シュタイナー教育だけでメイを育てていってよいものか疑問に思ってしまった。

その方とは、私がシュタイナーサークルを辞めてしまったこともあって、お目にかかっていないので、その後の顛末は知らないのだが、今でも、シュタイナー園に通っていると聞いた。


メイが幼稚園に入園する時、偶然、シュタイナー教育をしている人で、同じ園に入園させようとしている人に出会った。
私も妊婦だったが、知り合った方(Aさんとする)も妊婦だった。
我が家からメイの幼稚園まで、大人が徒歩で15分強くらい。
Aさんのお宅からは、大人の足で20分強だといっていた。
ジンが生まれ、しばらくした時に、夫が平日休みだったので、普段はバス通園のメイを幼稚園まで迎えに行った。
そのとき、Aさんに会った。
彼女はスリングの中に、生後1ヶ月経つか経たないかくらいの子どもを抱いて、お迎えにきていた。
『シュタイナーだと、やっぱり親が送り迎えするのがいいって言うからね、この子にはかわいそうだけど・・・』
と、彼女は笑って言った。
もちろん、Aさんは徒歩で送り迎えをされていた。

私の中の疑問が、更に膨らんだ。
上の子どものシュタイナー教育を実践するために、下の子どもが生まれたばかりなのに、毎日毎日、雨の日も強風の日も送り迎えのために1時間半近くも連れ歩くって、どうなのか・・・・と。

アメリカでは生後すぐから買物など連れ歩く人が多いと聞いたことがある。
でも、生後すぐの子どもを、毎日幼稚園に連れて行くのは、どうかと思った。
幼稚園くらいだと、まだ、清潔な環境とは言い難い。
先生がすべての子どもに、完全に目を光らせているわけではないので、仕方のないことだ。
ましてや、メイの幼稚園は、自然保育に近く、口の悪い人は『野生児』というくらいの園なのだ。


私が決定的に、教科書的シュタイナーと離れてしまったのは、これがきっかけだったと思う。
一人っ子ならば、教科書的に実践していくことは可能だ。
でも、他の兄弟に無理をさせてまで、教科書的に実践していくことは出来ない。
私は私なりに、自分の家庭にあったように実践していけば良い。
それが、教科書的シュタイナーとはかけ離れてしまっても、誰かに無理をさせていては、良い物も良い物でなくなってしまう。

それが、私の結論だった。

家庭で、シュタイナー教育をしていても、『幼稚園はどうしよう』とか『近所ではシュタイナーをしている人がいないから、困る』という方がいる。
今の日本で、シュタイナー教育をしている子供は少ない。
だからこそ、シュタイナー教育を自分なりに消化したやり方でやっていかなければ、長続きしない。
適当な妥協で、なし崩しに周囲と同調していると、それこそ、上の子はお受験で、下の子はシュタイナーなんて、支離滅裂なことになりかねない。

『良い物は良い。けれど、私には出来ない』
それをはっきりと認識して、やっていくことが、家庭でシュタイナー教育を長く続けていける方法なのではないかと思う。
それが『良いトコ取り』だと批判されても、誰かに無理をさせるよりは、ずっとマシだと思うのだ。

私は、教科書的なシュタイナー教育は出来ない。
最近、自分のしている育児を『LOHAS』だと思うのは、そのためだと思う。
シュタイナー教育をしようとしているが、出来ないことは無理しない。
そんな『LOHASなシュタイナー教育』が、割と気にいっている。
posted by 荷葉 at 02:29| Comment(4) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

クリスマスプレゼント

日曜日に実家に用事があって電話した。
すると、メイが『換わって、換わって』と大騒ぎするので、メイと電話を換わり、メイは私の母と何か話していた。
最初は幼稚園の話をしていた。
少しすると、『うーん』と考え込む様子のメイに、何やら嫌な予感がした。
『メイだけのパソコン。Mちゃんちには、Mちゃんだけのパソコンがあるの。メイも欲しい』
やっぱり、嫌な予感は的中した。
『クリスマスプレゼント、何が欲しい?』と聞いたのに違いない。
大きな溜息が出た。
メイが電話を切ろうとしたので、慌てて電話を換わり、買わないように釘を刺しておいた。

この季節は、毎年、イヤになる。
私の親は私に止められるのをわかっていながら、『クリスマスプレゼント、何が欲しい』と必ず聞くし、メイはメイで、『あれが欲しい、これがほしい』を連発する。
一番助かるのは夫の親だったりする。
あまり子どもに接するのが好きではないようで、誕生日もクリスマスも、たいていお金を送ってきて『何が欲しいかわからないから、好きな物を買ってあげて』という。
私にとっては一番助かる。
変なおもちゃが増えないで助かるし、服を買ってあげて、残りを貯金しておけば、自転車とか大きな物を、『祖父母からだよ』といって買えるから。

シュタイナー教育的なものから離れていくのは他者との関わりがきっかけに違いないと書いたが、イベントごとの時に、プレゼントとしてもらう物、これが一番の難物だと思う。
相手は子どもたちに喜んで欲しいと思って買ってくれるのだから、ありがたいのだが、こちらは一般的から少し離れたところにある教育方法を志しているので、親が喜ばないおもちゃが多数存在する。
でも、ありがたく受け取るしかない。
贅沢な悩みに違いない・・・・
でも、親の教育方針も捨てられないのである。
親としてありがたくないおもちゃは、友達が来た日や雨の日などの特別な日専用のおもちゃにする、という手を取る人もいるらしい。
でも、なかなかうまくいかないものだったりする。
特にうちのように賃貸に住んでいる場合、隠しておくための収納スペースがない。
メイなんか、押入に隠してあるジンのメリーを椅子を使って、勝手に出してきたりする。

結局、私が取る方法は、一番無難な本か服をリクエストすること。
シュタイナー教育的には絵本にもいろいろ制限があるのだが、キャラ物の絵本でなければ、電動のおもちゃをもらうよりマシだと私は思っているし、ちゃんとした絵本はけっこう値段も馬鹿にならないので、助かっている。
リクエストの仕方が難しいのだが、自分の親には、絵本が毎月届く通販のカタログを2種類くらい渡しておいて、その中にある絵本のリストの中から本屋で探してもらっていた。

そろそろ、メイは絵本もかなり持っているので、絵本作戦は通用しなくなってきたし、ジンもメイの本があるので、絵本作戦は通用しない。
あと1ヵ月半。
私は、許容できるプレゼントに頭を痛めることになる・・・・
posted by 荷葉 at 02:38| Comment(0) | TrackBack(0) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月02日

シュタイナー教育の理想と現実

メイがよちよちしている頃は、それでも少しはシュタイナー教育に沿った生活をしていた。
家には木のおもちゃや布のおもちゃばかりだったし、テレビも時折『おかあさんといっしょ』を見るくらいだった。

だんだん崩れてきたのは、何が原因だったのだろう?
祖父母から貰うプラスチックおもちゃだろうか。
それとも、お友達の家でキャラ物や動くおもちゃに触れるようになったからだろうか。
いずれにせよ、メイが親以外から物事を知るようになったのが原因だったのだろうと思う。

子どもが他者と関わりを持てるようになるのは良いことだけど、シュタイナー教育は子どもを夢のなかで生活するように育てることが基本だから、幼児教育が大流行の今、ずっとシュタイナーに浸らせていくのは、かなり不可能に近い。
私がシュタイナー教育をいろいろ教えて頂いた方も、他者の関わりから入ってくるシュタイナー的でないものの排除に苦心しておられた。

シュタイナー教育の理想と現実は、皮肉なことだが、こうやって他者との関わりを持てるようになり、かけ離れていくのだと思う。
それでもシュタイナー的な生活をし続けたいなら、シュタイナー教育を実践しようとする仲間との関わりを最重要にして、密にしていくしかない。

メイはシュタイナー教育の自主サークルに行っていたことがある。
だが、長続きしなかった。
何故かというと、私が私の時間をシュタイナー教育に費やすことができなかったからだと思う。
サークルに来ておられた方達はとても熱心で、車で1時間もかけてくる方やシュタイナー的なおもちゃや生活のためにかなりのお金を費やす方が多かった。
私はその熱狂的な熱心さについていけなかった。

結局、自分にできる範囲でやるシュタイナー教育で良いんじゃないかと割り切ることにした。
そして、サークルを辞めた。


メイが普通の幼稚園に通っていることもあって、今の我が家には、制限しているものの、キャラ物やプラスチックおもちゃがかなり増えた。
そんなシュタイナーからかけ離れた中でジンは遊び、暮らしている。
不思議なことに、彼のお気に入りのおもちゃは、全て木のおもちゃや布のおもちゃだ。
何故かはわからない。
かつてのメイにそうしてきたように、ジンにもシュタイナー的に接してきているのかもしれない。
きっと、今ではシュタイナー教育を意識したことは全くないが、私の頭の底にはシュタイナー的な考えが染み付いているのだろう。
posted by 荷葉 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(1) | シュタイナー教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする