最近、汁椀を新調した。
子どもたちのものは棗(なつめ)で、私と夫のものはメープル製。
今回、購入するときに知ったこと。
木製食器と陶器は、一緒に洗わないほうが木製食器が長持ちするのだそうだ。
一緒に洗うと、固い陶器が木製食器に傷をつけてしまう。
へこんでしまったりというような目に見えるものでなくとも、いつも一緒に洗っているうちに、徐々に痛みになってしまうのだそうだ。
それでなくとも、木製食器は、へこんだり、傷ついたりしやすいので、固いものと一緒に洗うことが、食器にとって好ましくないことは確かだろう。
急激な温度変化は避けたほうがいいというし、長時間の付け置きもダメ。
食器洗浄機も使えないし、電子レンジも使えない。
(もちろん、使えるものもあるが、本物らしくない気がして好きではない)
陶器に比べれば、手入れに手のかかる木製食器。
でも、口当たりの良さは、ピカイチだ。
プラスチック製の汁椀など、比べ物にならない。
子どもに、小さいころから本物を・・・
最近、よく聴く言葉だ。
一番身近な食器を、本物に変える。
手軽で、子どもたちが一番接する本物になれると思う。
2007年05月31日
2007年05月28日
NPO法人設立に向けて思う
メイが1歳のとき、子育てサロンに参加者として通い始めて、すぐ運営側に携わることになった。
これも、私が、子育て専業主婦が感じると言う『社会との隔絶』に悩んだ末の結果だ。
それから、5年間の間に、さらにもう1団体、子育て関係のボランティアに関わって、現在スタッフとして活動しているのは2団体。
あとから関わりを持ったボランティア団体が、NPO法人化を目指すことになった。
(このカテゴリは、私の覚書と単なる愚痴です。お好みでない方は、読み飛ばしてください)
NPO法人と言うと、皆さんはどんなイメージをお持ちなのだろうか?
育児支援のボランティアでは、元・保育士、元・幼稚園教諭、子育て終了後の主婦が多い。
私の所属している団体もそうだ。
現役子育て中(乳児から中学生くらい)の人は、1/4くらいだろうか。
現役子育て中とはいっても、子供にかかる手が離れてくれば、パートに出る人もいるし、ボランティアばかりに精を出しているわけにも行かない。
そういうわけもあって、子育て中の会員はいても、活動の主体は40代後半〜50代の主婦ということになる。
そんなメンバーでのNPO法人設立なのだから、外から見れば、『すごいな』と思われることであっても、内部は壮絶だ。
決めなければいけないこと、一つ一つが、現象として理解できても、自分たちの身に降りかかる実感として理解できない。
○○と決めたら、自分たちがどう変わるのか、どういうことをしなければいけないのか、理解できない。
法律で使われるような難しい言葉に向き合うことが少なかったのだから、仕方のないことなのかもしれない。
こういった現状で、『調べることの出来る人』『知ろうとする人』だけが、やきもきしているのだ。
『NPOであれ、法人になったら、会社と同じような組織であって、同じ志を持った者の寄せ集めではないことを、誰も理解していない。
このままでは、理想や事業内容は良くても、組織そのものがダメになってしまう』
誰もが『NPO法人格』を取っても、何一つ変わらないと、心の底から思っている。
今の活動で、NPO法人』の冠が付くだけだと、皆が思っている。
『法人』になれば、社会的に認められる。
そして、様々な法に守られる。
でも、その代償として、規律や制度を自治していかなければならない。
(NPO法には、官庁の監督は最小限に抑えられ、市民による監視=内部自治での統制が書かれている)
今まで普通に専業主婦の生活を、何十年も送ってきた人が、ふと思い立って、法的に認められる団体の『経営者』になる。
それが、現実として起こるのが『NPO法人格取得』なのだと思う。
『起業』しようと勉強していたわけではないから、なおさら問題なのだ。
知らなければいけないことは、山ほどある。
単なるボランティアのように『現場』のことだけ悩んでいればいいわけでもない。
官庁との協働、資金不足の解消、法人格取得に伴って起きてくる提出書類の増大や書類管理の増大・・・
『学生に戻ったみたい』なんて言ってくれれば、まだマシだと思う。
提示された書類を見ることもなく、もしくは斜め読み程度で『私には理解できないことだから・・・』
そういってしまって済むものなのだろうか。
仮にも、NPO法人の理事に選出されるであろう人が・・・
NPO法人になっても、変わらず現場に立つ予定の立場の人たちが、『わかろう』として、いろいろ本を読んだり、NPO支援の団体が発行している冊子を読んだりしてくれているのに・・・と思ってしまう。
私は、今回設立しようとしているNPO法人の発起人の中で、『知らない』『わからない』『調べない』の危険性に気づいている一人でもある。
当面、私に課せられた課題は、『知らない』『わからない』『理解できない』を連発される中、少しでも知ってもらうこと。
『理解して欲しい』なんて言わない。
『知って欲しい』『心に留めて欲しい』
ただ、それだけ。
私はいつかこの土地を離れる。
離れてしまっても、私の知識が役に立てるように、残すのみだ。
幼児を抱え、睡眠時間を削り、タダ働きで・・・
それでも、このボランティアに関わる選択をしたのは自分だ。
出産・育児という大きな出来事の中で、社会と隔たり、子どもと向き合うだけの自分に、どうしようもない焦燥感と自己嫌悪を感じて、関わることを決めたのは自分だ。
もちろん、個人的な背景なのだけれど、私のようなどうしようもない焦燥感と自己嫌悪を感じる母親に、仕事復帰以外の選択肢の一つとして、生き残ってほしいボランティア活動だと思っているからこそ、この際、歯を食いしばっても、やらなければいけないことは、やるしかないと思う。
そんなわけで、学生のように、様々な専門書を読み漁る日々なのだ。
理解しながら読まなければいけないので、子どもが寝たあと、読み進める。
寝不足なんて当たり前だ。
(ジンが、夜鳴きをしているし・・・)
それでも、心底『つらい』と感じない自分がいる。
これも、私が、子育て専業主婦が感じると言う『社会との隔絶』に悩んだ末の結果だ。
それから、5年間の間に、さらにもう1団体、子育て関係のボランティアに関わって、現在スタッフとして活動しているのは2団体。
あとから関わりを持ったボランティア団体が、NPO法人化を目指すことになった。
(このカテゴリは、私の覚書と単なる愚痴です。お好みでない方は、読み飛ばしてください)
NPO法人と言うと、皆さんはどんなイメージをお持ちなのだろうか?
育児支援のボランティアでは、元・保育士、元・幼稚園教諭、子育て終了後の主婦が多い。
私の所属している団体もそうだ。
現役子育て中(乳児から中学生くらい)の人は、1/4くらいだろうか。
現役子育て中とはいっても、子供にかかる手が離れてくれば、パートに出る人もいるし、ボランティアばかりに精を出しているわけにも行かない。
そういうわけもあって、子育て中の会員はいても、活動の主体は40代後半〜50代の主婦ということになる。
そんなメンバーでのNPO法人設立なのだから、外から見れば、『すごいな』と思われることであっても、内部は壮絶だ。
決めなければいけないこと、一つ一つが、現象として理解できても、自分たちの身に降りかかる実感として理解できない。
○○と決めたら、自分たちがどう変わるのか、どういうことをしなければいけないのか、理解できない。
法律で使われるような難しい言葉に向き合うことが少なかったのだから、仕方のないことなのかもしれない。
こういった現状で、『調べることの出来る人』『知ろうとする人』だけが、やきもきしているのだ。
『NPOであれ、法人になったら、会社と同じような組織であって、同じ志を持った者の寄せ集めではないことを、誰も理解していない。
このままでは、理想や事業内容は良くても、組織そのものがダメになってしまう』
誰もが『NPO法人格』を取っても、何一つ変わらないと、心の底から思っている。
今の活動で、NPO法人』の冠が付くだけだと、皆が思っている。
『法人』になれば、社会的に認められる。
そして、様々な法に守られる。
でも、その代償として、規律や制度を自治していかなければならない。
(NPO法には、官庁の監督は最小限に抑えられ、市民による監視=内部自治での統制が書かれている)
今まで普通に専業主婦の生活を、何十年も送ってきた人が、ふと思い立って、法的に認められる団体の『経営者』になる。
それが、現実として起こるのが『NPO法人格取得』なのだと思う。
『起業』しようと勉強していたわけではないから、なおさら問題なのだ。
知らなければいけないことは、山ほどある。
単なるボランティアのように『現場』のことだけ悩んでいればいいわけでもない。
官庁との協働、資金不足の解消、法人格取得に伴って起きてくる提出書類の増大や書類管理の増大・・・
『学生に戻ったみたい』なんて言ってくれれば、まだマシだと思う。
提示された書類を見ることもなく、もしくは斜め読み程度で『私には理解できないことだから・・・』
そういってしまって済むものなのだろうか。
仮にも、NPO法人の理事に選出されるであろう人が・・・
NPO法人になっても、変わらず現場に立つ予定の立場の人たちが、『わかろう』として、いろいろ本を読んだり、NPO支援の団体が発行している冊子を読んだりしてくれているのに・・・と思ってしまう。
私は、今回設立しようとしているNPO法人の発起人の中で、『知らない』『わからない』『調べない』の危険性に気づいている一人でもある。
当面、私に課せられた課題は、『知らない』『わからない』『理解できない』を連発される中、少しでも知ってもらうこと。
『理解して欲しい』なんて言わない。
『知って欲しい』『心に留めて欲しい』
ただ、それだけ。
私はいつかこの土地を離れる。
離れてしまっても、私の知識が役に立てるように、残すのみだ。
幼児を抱え、睡眠時間を削り、タダ働きで・・・
それでも、このボランティアに関わる選択をしたのは自分だ。
出産・育児という大きな出来事の中で、社会と隔たり、子どもと向き合うだけの自分に、どうしようもない焦燥感と自己嫌悪を感じて、関わることを決めたのは自分だ。
もちろん、個人的な背景なのだけれど、私のようなどうしようもない焦燥感と自己嫌悪を感じる母親に、仕事復帰以外の選択肢の一つとして、生き残ってほしいボランティア活動だと思っているからこそ、この際、歯を食いしばっても、やらなければいけないことは、やるしかないと思う。
そんなわけで、学生のように、様々な専門書を読み漁る日々なのだ。
理解しながら読まなければいけないので、子どもが寝たあと、読み進める。
寝不足なんて当たり前だ。
(ジンが、夜鳴きをしているし・・・)
それでも、心底『つらい』と感じない自分がいる。
春の収穫
一言で言えば、今年の春の収穫は、目指すものは全く手に入らず・・・だった。
いつもの自然公園のワラビは、密かにオバサマ方に目をつけられていたようなので、あまり期待はしていなかったのだが、今年は下草狩りで刈られてしまったケースを除いて考えても、ワラビの『ワ』の字もない。
積み残されて葉になったものすらない。
根こそぎ持っていかれたのだろか?
そういうわけもあって、今年の春の山菜収穫は、趣が違う。
喜んでいるのは、子どもたちばかりだ。
今までは、あまり目もくれなかった『ヨモギ』
あまりにも収穫がないので、今年は、犬の散歩の方々が来ないような斜面で、メイと一緒にヨモギ摘み。
これはGWの話だ。
取れたヨモギは、草餅と蓬白玉に。

(蓬白玉)
そして、この土曜は、『ヤマグワ』取り。
このヤマグワは、まだまだ青いころ、偶然見つけたもので、昨日『収穫時期を逃してなるものか』と思い、行って取ってきた。
結構古い木で、枝が垂れ下がっているので、子どもたちでも取れる。
今回収穫した場所のほかに、もう1箇所見つけたのだが、そちらのヤマグワは、もう、瀕死の状態。
枯れ木のような状態で、葉すら芽吹かない枝が多い。
それでも、中くらいのサイズの枝には、葉も実も付けている。
まだ、実は青かった。
あと何年、実をつけられるのだろうか・・・
私はそんなことを思ったが、子どもたちはお構いなし。
『熟したころ、取りに来ようね』
実を取るときには、木の周りをぐるぐる探し回ることだし、メイには瀕死の木の話をしてあげよう。
今回、収穫したヤマグワの木も、あまり状態は良くない。
私たちの手に届く半分は、葉も実も旺盛に付けていたけれど、崖向こうに伸びた枝には、葉も実もなく、枯れ枝のようだった。

(ヤマグワ)
哀しいことだけれど、ヤマグワの木がある場所は、あまり人が来ない場所にあることだし、雑木林といった観があるので、これも自然の摂理。
でも、ヤマグワから程近い場所には、『タラ』の幼木4本が見つかり、『こちらは枯れ始めているのに、あちらはこれから大きくなる』とうれしいのか悲しいのか、まぁ、散歩がてら成長を楽しみに収穫する私としては、自然の摂理をまざまざと見せ付けられた散歩だった。
もう少し経つと、『ミツバ』と『ヤマモモ』
ミツバは、あまり人の来ない場所に群生しているので、収穫も楽なのだが、ヤマモモは自然公園の一番人の多い場所にあるので、収穫はかなり恥ずかしい。
毎年、公園に遊びに来ている人たちに『これ、何なんですか?』とか『食べられるものなんですか?』などと聞かれる。
恥ずかしいなと思いつつも、止められない。
大きな木で、旺盛に実を付けるのに、誰も取らないから、一回でビニール袋1杯は取れ、生食でも、ジャムでも、余るくらいなのだ。
そうそう、ボランティア仲間のNさん宅近くのセリもとりに行かなきゃ。
時期が外れ始めている気はするが、群生も群生、あれだけ生えていれば、まだまだ取れるだろう。
ワラビがダメだったから、夫にも、まだ残る春の味を味あわせないと・・・
潮干狩りに専念されて、春の山菜を忘れられてしまいそうだ。
いつもの自然公園のワラビは、密かにオバサマ方に目をつけられていたようなので、あまり期待はしていなかったのだが、今年は下草狩りで刈られてしまったケースを除いて考えても、ワラビの『ワ』の字もない。
積み残されて葉になったものすらない。
根こそぎ持っていかれたのだろか?
そういうわけもあって、今年の春の山菜収穫は、趣が違う。
喜んでいるのは、子どもたちばかりだ。
今までは、あまり目もくれなかった『ヨモギ』
あまりにも収穫がないので、今年は、犬の散歩の方々が来ないような斜面で、メイと一緒にヨモギ摘み。
これはGWの話だ。
取れたヨモギは、草餅と蓬白玉に。
(蓬白玉)
そして、この土曜は、『ヤマグワ』取り。
このヤマグワは、まだまだ青いころ、偶然見つけたもので、昨日『収穫時期を逃してなるものか』と思い、行って取ってきた。
結構古い木で、枝が垂れ下がっているので、子どもたちでも取れる。
今回収穫した場所のほかに、もう1箇所見つけたのだが、そちらのヤマグワは、もう、瀕死の状態。
枯れ木のような状態で、葉すら芽吹かない枝が多い。
それでも、中くらいのサイズの枝には、葉も実も付けている。
まだ、実は青かった。
あと何年、実をつけられるのだろうか・・・
私はそんなことを思ったが、子どもたちはお構いなし。
『熟したころ、取りに来ようね』
実を取るときには、木の周りをぐるぐる探し回ることだし、メイには瀕死の木の話をしてあげよう。
今回、収穫したヤマグワの木も、あまり状態は良くない。
私たちの手に届く半分は、葉も実も旺盛に付けていたけれど、崖向こうに伸びた枝には、葉も実もなく、枯れ枝のようだった。
(ヤマグワ)
哀しいことだけれど、ヤマグワの木がある場所は、あまり人が来ない場所にあることだし、雑木林といった観があるので、これも自然の摂理。
でも、ヤマグワから程近い場所には、『タラ』の幼木4本が見つかり、『こちらは枯れ始めているのに、あちらはこれから大きくなる』とうれしいのか悲しいのか、まぁ、散歩がてら成長を楽しみに収穫する私としては、自然の摂理をまざまざと見せ付けられた散歩だった。
もう少し経つと、『ミツバ』と『ヤマモモ』
ミツバは、あまり人の来ない場所に群生しているので、収穫も楽なのだが、ヤマモモは自然公園の一番人の多い場所にあるので、収穫はかなり恥ずかしい。
毎年、公園に遊びに来ている人たちに『これ、何なんですか?』とか『食べられるものなんですか?』などと聞かれる。
恥ずかしいなと思いつつも、止められない。
大きな木で、旺盛に実を付けるのに、誰も取らないから、一回でビニール袋1杯は取れ、生食でも、ジャムでも、余るくらいなのだ。
そうそう、ボランティア仲間のNさん宅近くのセリもとりに行かなきゃ。
時期が外れ始めている気はするが、群生も群生、あれだけ生えていれば、まだまだ取れるだろう。
ワラビがダメだったから、夫にも、まだ残る春の味を味あわせないと・・・
潮干狩りに専念されて、春の山菜を忘れられてしまいそうだ。
2007年05月25日
午前3時の悪魔
ジンが断乳して、やっと朝までゆっくり眠れると思ったら、これが大間違いだった。
幼い子どもは、その日の体験を寝ながら反芻して記憶するので、寝ながらうなされたりすることも多いと聞いたことがあるが、ジンの場合、断乳後、午前3時前後になると、大泣きする。
確かに、メイにやられることも多いので、寝ながら反芻するのであれば、毎日うなされることも頷ける。
だが、毎日は結構つらい。
断乳直後は、抱っこしたり、背中をトントンしてあげれば、また、すぅっと寝てしまったのだが、最近は『抱っこ、イヤ』『あっち行って』などと言うので、深夜に泣かれると、本当に困ってしまう。
見守っていて、短時間で寝てくれるときはいいのだが、長くなると、今度はメイが『うるさ〜〜い』と大騒ぎ。
おかげで、毎日寝不足だ。
ジンは、日中も『イヤイヤ』が酷くなってきているので、俗に言う『魔の2歳児』なのだ。
断乳前は、『早くゆっくり眠りたい』と思っていたが、今も同じことを思っている。
成長はうれしいが、早く『魔の2歳児』を卒業して欲しい・・・
幼い子どもは、その日の体験を寝ながら反芻して記憶するので、寝ながらうなされたりすることも多いと聞いたことがあるが、ジンの場合、断乳後、午前3時前後になると、大泣きする。
確かに、メイにやられることも多いので、寝ながら反芻するのであれば、毎日うなされることも頷ける。
だが、毎日は結構つらい。
断乳直後は、抱っこしたり、背中をトントンしてあげれば、また、すぅっと寝てしまったのだが、最近は『抱っこ、イヤ』『あっち行って』などと言うので、深夜に泣かれると、本当に困ってしまう。
見守っていて、短時間で寝てくれるときはいいのだが、長くなると、今度はメイが『うるさ〜〜い』と大騒ぎ。
おかげで、毎日寝不足だ。
ジンは、日中も『イヤイヤ』が酷くなってきているので、俗に言う『魔の2歳児』なのだ。
断乳前は、『早くゆっくり眠りたい』と思っていたが、今も同じことを思っている。
成長はうれしいが、早く『魔の2歳児』を卒業して欲しい・・・
2007年05月10日
親の安全意識
以前からずっと感じていて、でも『こんなこと書くと、怪しいトラバがいっぱい来そうで嫌だな〜〜』と思っていたのだが、GWにやっぱり同じことを感じたので、書こうと思う。
GW中に子どもたちと野毛山動物園に行った。
お目当ては、GW期間中のイベントである『動物たちのお食事タイムと飼育員のガイド』
中でも、リクガメは、食事タイムはないものの、リクガメに触れるような感じだったので、めったにない機会だと思い、混雑覚悟でリクガメを触りに行って来た。
行った事のある人はわかると思うが、普段は閑散としている園内が、別世界のような混雑振り。
リクガメのガイドも、結構な人垣が出来た。
リクガメを中心にして、円になって、飼育員の話を聞くのだが、最前列にいるのは、もちろん子どもたち。
ジンが、前に前に出て行くので、私も前列のほうでジンを背中から捕まえていたのだが、真正面に小学校3〜4年生くらいの女の子の集団がかがんでいた。
そこで、目に入ってしまったのが、女の子たちのスカートの中。
大人なら、ひざをつけたりして見えないように配慮するところだが、子どもは無頓着なので、丸見え。
でも、どうみてもパンツそのものなのだ。
気になって、ぐるりと周りを見てみれば、ほとんどの女の子が、パンツ丸見え状態。
変質者の話題の事欠かない今、ちょっと無防備だな、と感じるのは私だけだろうか。
登下校中の小学生を見れば、ズボンやジーパンの女の子が多いので、親の目の届かないところだけは気をつけている人が多いってことなのかな?
だが、先日、親と一緒にフリーマーケットに来ていた女の子(確か幼稚園生くらいだったと記憶している)が、親が目を離した隙に物陰でわいせつ行為をされたという新聞記事を見た。
幼稚園生と小学生では違うかもしれないが、大人の男性の力にはかなわないという点では同じだ。
たかがスパッツ1枚なのかもしれない。
もちろん、スパッツでも興味をそそられる変質者もいるだろう。
だが、変質者の興味を惹かないようにするという気持ちが大切だと思う。
同じように、公共の場での幼児の半裸。
これからのシーズン、水辺などで、幼児が半裸・全裸で水遊びをしている光景をよく見かけるが、これも止めたほうがいいと思う。
紫外線の影響などは、親によって捉え方も違うだろうが、事件に巻きこまれたくない思いは、どの親も同じだと思う。
幼児が半裸で水遊びをしている光景は、確かに微笑ましいものだ。
でも、それを微笑ましいものとしてではなく、己の欲求の対象として捉える人もいるのだということを認識すれば、半裸で水遊びはさせられないと思う。
Tシャツ1枚着せれば、だいぶ印象が違うものだ。
何もないから良しとするのではなく、何も起こらないように些細なことでも対処するような安全意識を持って欲しいと思う。
幼いうちから、小さな安全意識の積み重ねをしていけば、子どもの心の中にも、当たり前のこととして、些細なことから対処する安全意識が芽生えるのではないかなと感じる。
GW中に子どもたちと野毛山動物園に行った。
お目当ては、GW期間中のイベントである『動物たちのお食事タイムと飼育員のガイド』
中でも、リクガメは、食事タイムはないものの、リクガメに触れるような感じだったので、めったにない機会だと思い、混雑覚悟でリクガメを触りに行って来た。
行った事のある人はわかると思うが、普段は閑散としている園内が、別世界のような混雑振り。
リクガメのガイドも、結構な人垣が出来た。
リクガメを中心にして、円になって、飼育員の話を聞くのだが、最前列にいるのは、もちろん子どもたち。
ジンが、前に前に出て行くので、私も前列のほうでジンを背中から捕まえていたのだが、真正面に小学校3〜4年生くらいの女の子の集団がかがんでいた。
そこで、目に入ってしまったのが、女の子たちのスカートの中。
大人なら、ひざをつけたりして見えないように配慮するところだが、子どもは無頓着なので、丸見え。
でも、どうみてもパンツそのものなのだ。
気になって、ぐるりと周りを見てみれば、ほとんどの女の子が、パンツ丸見え状態。
変質者の話題の事欠かない今、ちょっと無防備だな、と感じるのは私だけだろうか。
登下校中の小学生を見れば、ズボンやジーパンの女の子が多いので、親の目の届かないところだけは気をつけている人が多いってことなのかな?
だが、先日、親と一緒にフリーマーケットに来ていた女の子(確か幼稚園生くらいだったと記憶している)が、親が目を離した隙に物陰でわいせつ行為をされたという新聞記事を見た。
幼稚園生と小学生では違うかもしれないが、大人の男性の力にはかなわないという点では同じだ。
たかがスパッツ1枚なのかもしれない。
もちろん、スパッツでも興味をそそられる変質者もいるだろう。
だが、変質者の興味を惹かないようにするという気持ちが大切だと思う。
同じように、公共の場での幼児の半裸。
これからのシーズン、水辺などで、幼児が半裸・全裸で水遊びをしている光景をよく見かけるが、これも止めたほうがいいと思う。
紫外線の影響などは、親によって捉え方も違うだろうが、事件に巻きこまれたくない思いは、どの親も同じだと思う。
幼児が半裸で水遊びをしている光景は、確かに微笑ましいものだ。
でも、それを微笑ましいものとしてではなく、己の欲求の対象として捉える人もいるのだということを認識すれば、半裸で水遊びはさせられないと思う。
Tシャツ1枚着せれば、だいぶ印象が違うものだ。
何もないから良しとするのではなく、何も起こらないように些細なことでも対処するような安全意識を持って欲しいと思う。
幼いうちから、小さな安全意識の積み重ねをしていけば、子どもの心の中にも、当たり前のこととして、些細なことから対処する安全意識が芽生えるのではないかなと感じる。

